05年1月8日(土)
 滋賀県坂田郡山東町の「三島池」へ オシドリ、東浅井郡浅井町の「西池」へ ミコアイサを見に出かけた。天候は時折小雪が舞い散る寒い日となったが、どちらも初期の目的は達することができた。

 今回は友人に誘われて、同じく滋賀県守山市勝部町の「勝部神社」で開催された火祭りを見るのがもう一つの目的。クライマックスの火祭りの始まったのが午後8時30分を回ってからということで、寒風吹きすさぶ中での撮影となった。

 電車を利用して見に来たら、寒さしのぎにお神酒を頂いて身体の中から暖めることも出来るのだが、車とあってはそうもいかない。セーター・ジャンパーを着て、更にその上にヤッケをはおって完全防備で臨んだのだがそれでも寒さがこたえた一日であった。


[ 三 島 池 ]

 午前7時10分、JR名古屋駅で職場の友人と待ち合わせ、予定時間どおり出発。国道22号線を経て名神高速道路に入る。関ヶ原ICから国道365号線の伊吹山ドライブウエー入り口を少し過ぎた辺りを左折し15分ほどで「三島池」に着く。

 天気は上々、雪化粧を施した伊吹山が冬の青空にくっきり浮かぶ。風がなければ三島池に映る「逆さ伊吹」が素晴らしいとのことであったが、池の水面には漣が立っている。

 

 三島池は、周囲約780m、面積3万9千uの池で、約700年ほど前に農業用水池として造られたものという。また、マガモ自然繁殖の南限地として、1959年(昭和34年)に県の天然記念物にも指定されている。池の南側に隣接する県営ビジターセンターでは、マガモに関する資料や望遠鏡を備えており、自由に見ることができる。

 隣接するグリーンパーク三東にはテニスコート、キャンプ場、アスレチックなどが整備されており、季節にはアウトドアスポーツに親しむ人で賑わいを見せる。

 この池のお目当ては「オシドリ」。池の周りをぐるっと見回したが見当たらないのでカメラを持った人に聞くと、普段は池の真ん中にある島の水際に居るとのこと。探すとやはりそのとおりで、他の鳥たちに混じって羽を休めていた。初の出会いとあって、願わくば水面を泳ぐオシドリを写真に収めたかったのだが、時間が無くて望み叶わず。

 マガモの繁殖地というだけあって沢山のマガモがいる。その他で目に付いた水鳥は、オナガガモ、ヒドリガモ、コガモといったところ。カイツブリ、ミコアイサのメスも少数ではあるが見ることができた。

陸に上がったオシドリ マガモ マガモの群
ヒドリガモ ヒドリガモの群 オナガガモ(左) カイツブリ


[ 西  池 ]

 三島池での撮影を終えて再び国道365号線に戻り北上する。次の目的地「西池」までは約10kmの道程。この辺り、近江の地は、戦国時代の英雄と称される織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ゆかりの地が多い。

 「姉川」は、浅井長政・朝倉義景連合軍と織田信長との戦い「姉川の合戦(1570年・・元亀元年)」が行われたところとして知られている。浅井長政の居城であった「小谷城」は険阻な山中に建てられていたが、織田信長の配下であった羽柴秀吉の活躍によって落城の憂き目に逢っている(1573年・・天正元年)。浅井長政の妻で信長の妹でもあるお市の方はこの後、柴田勝家に嫁ぐが、またしても羽柴秀吉に滅ぼされあえなく最期を遂げることとなる。

 小谷城から少し北にある「賤ヶ岳」では、羽柴秀吉が「賤ヶ岳の合戦(1583年・・天正11年)」で柴田勝家を破り信長亡き後の天下の実権を手にした。「関ヶ原」は、豊臣秀吉の没後、政権が内部分裂し石田光成を中心とする西軍と徳川家康率いる東軍が戦った有名な「関ヶ原の合戦(1600年・・慶長5年)」の地である。

 そういえば、「長浜」は羽柴秀吉が命名した土地であるし、関ヶ原がある岐阜県の「岐阜」は織田信長が「中国の古代王朝周の始祖・文王が岐山で挙兵し、天下を平定した」という中国の故事にち因んで命名した土地でもある。こうした地名を見たりすると、歴史小説で読んだ情景が浮かんでくるようで、感慨深いものがある。

 それはさておき、「西池」は、緑の山々に囲まれた谷間に静かな佇まいを見せ、正に水鳥の楽園という名に相応しいところである。周囲1.6km、面積約8.7haの灌漑用貯水池となっており、非常に古くからあって物部守屋(もののべのもりや)が作らせたという伝説がある。ここはオオヒシクィの日本南限の飛来地であり、バードウォッチャーがよく訪れる地でもある。

 西池へ着いて間もなくすると、空が急に曇って小雪が舞いかけた。ときには吹雪のような降りを見せることもあったが、何とか撮影だけはできた。ここにも観察舎「野鳥ふれあいの家」があり望遠鏡が設置されて池を一望することができる。


 西池では初めてミコアイサのオスを見ることができた。遥か彼方に位置していたので鮮明な写真ではないけれど、記念に掲載しておく。また、池の対岸でオオタカが狩をして水鳥を捕獲したのはいいけれど、重さで飛べず溺れかかっていたという話を夫婦連れのバードウォッチャーから聞いて、現認できなかったのが残念であった。

 ここで見た水鳥は、オオヒシクイ、オナガガモ、マガモ、コガモ、カルガモ、カワウ、アオサギ、それとミコアイサなどであった。
オオヒシクイ コガモ カルガモ
マガモ オナガガモ ミコアイサ


[ 勝部神社の火祭 ]

 西池での撮影が終わったときは既に午後2時を回っていた。昨年12月にも訪れた「道の駅湖北水鳥センター」に立ち寄って遅い昼食。メニューは「鴨ラーメン」。つい先程までカモの写真を撮っていてカモラーメンというのもなんだか変な気もしたが、それはそれ、これはこれ。

 食事後、まだお祭りの開始時刻までには3時間近くあったので、もう一稼ぎと首に1眼デジカメ、手にはデジスコといういでたちで湖岸へ出てみたら今度は霙。湖には夥しい数のオオバンが群れて沖合いに向かって移動している。撮影しようかとも思ったが、1枚の写真よりカメラの方が大切と、ここではジッと我慢の子。

 霙が止むのを期待しつつ、葦原沿いに鳥を求めながら歩いてみたが、シジュウカラの忙しげな声を時々耳にするぐらいで、狙っていたオオジュリンやベニマシコには会えずじまい。そうこうしているうちに時計が4時を回ったので、次の目的地「勝部神社」に向かうこととした。

 名神高速道路「長浜IC」に入ってしばらく走り、ふと湖の方を見たら沈みかけた陽の光が放射状に雲を染め、なんとも綺麗な夕焼空。"こんなことだったらもう少し湖に居るんだった"と後悔してみたものの後の祭り。周りを見渡すと幸い車はほとんど通らない。イケナイこととは知りながら路側に車を止めて夕焼けを急いでパチリ!。

 

 勝部神社は名神高速道路「栗東IC」を降りて15分ばかり走ったJR守山駅のすぐ近くにある。地図で見たときは長浜からそれほど遠くないと思っていたが、いざ行ってみると結構な距離があった。後で調べてみたら、長浜ICから栗東ICまでは63km、一宮IC〜関ヶ原(34km)の2倍近くもあるのだから遠いはずだと納得。

 火祭りは初めての経験なので、神社の故事来歴などを調べてみることにした。それによると、勝部神社が創建されたのは649年(大化5年)とある。大化の改新の詔が発せられた年(646年・・大化2年)の3年後という古い時代のことである。

神社境内 社殿 懐かしい夜店

 「勝部の火祭り」は、勝部神社の祭事では「松明祭」といい、その由来は、鎌倉時代、土御門天皇(1195年〜1210年、在位1198年〜1210年)の病気が重いので占師に占わせたところ、数千年も生きている大蛇がその元凶だというので切り殺して火に焼いて踊ったところ、天皇が全快したことに始まると言われている。

 JRを挟んで近くに浮気(ふけ)町というところがあり、1月8日のこの日、町の住吉神社でも火祭りが行われている。これは、大蛇を退治して焼き払ったとき胴体は今の勝部付近に、頭は浮気[ふけ]付近に飛んだという伝承に由来する。

 夕刻になると、白と赤の褌を締めた15歳から35歳の若者が3組になって大太鼓を担ぎ、"オイサー、オイサー"と掛け声も勇ましく町内を練り歩くと、家々では酒や菓子、饅頭などを振舞ってその労をねぎらう。

 火祭りに使われる大松明は、はんのき・菜種殻・竹・縄等でできており、1基の長さが約5m、最大直径約4m、重さ約400kgもある。午後8時半を過ぎた頃、大松明12基が神社境内に搬入され、若者が裸のまま神前で御神火から火をもらって一斉に点火すると、神社の由緒書の言葉を借りれば「火勢、炎々天に漲り遠く琵琶湖に映す」様となる。

 

 火祭りはいよいよクライマックス。褌姿の若者たちが、燃え盛る松明の火の粉を浴びながら鐘や鼓を打ち鳴らし、 無病息災を祈願して「ごうよ、ひょうよ(御脳平癒の転)」と掛け声をかけつつの乱舞。正に豪壮な火の祭りだ。

 左の写真は着火直後。松明から炎が勢いよく噴出している。右の写真の中央の青白い煙越しに向こうを見ると、裸の若者が乱舞する姿を垣間見ることができる。
 因みに、住吉神社では「ごうよ、ひょうよ」という掛け声ではなく、「へーゆ、へーゆ(平癒の意か)」というそうである。

 火の乱舞が終わると消火のため一斉に水が注がれ、辺りは一瞬にして白煙に包まれる。時計は既に9時を回っている。燃え残った松明は再び若者たちの手によって境内から運び出され、祭りの終りが近い。境内では参拝客たちが松明の残り火を拾って身体にかざし、無病息災を祈る姿が見られる。この後、神社からお札を受けて帰る人々の頬は祭りの興奮と火照りで紅く染まっていた。


 祭りが終わって車に戻ったら9時半。帰宅時間は11時過ぎにはなるだろう。朝7時から16時間にも及ぶこの日のスケジュールであったが、満足感も大きなものがあった。


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